青春狂走曲

今日ようやく『音楽とことば』を購入した。いつも読んでいるブログ(大体が音楽関係の方々のもの)の多くがこの本について触れていたし、アマゾンのおすすめアイテムにも入っていたので、多少値ははったけれど思い切って買った。早速電車の中で読む。冒頭が曽我部恵一さんのインタビュー。詞先だということは知っていたけれど、それが『若者たち』の頃から一貫していたとは。昔は詞先だというミュージシャンのことがあまり好きではなかった、というか、詞よりもメロディーが重要だとか詞はリズムに乗っていればいいという考え方の方がかっこいいと思っていた。はっぴいえんどが詞先だと聞いて少し考えを改めたけれど、それでも歌詞や言葉ありきでは曲が縛られてしまうというイメージのしこりはいまだ残っている。逆の(曲先)弊害については何も想像できないのだから、単純にメロディーが好きなのだろう。奥田民生さんの影響もあるのかもしれない。
曽我部さんの言葉へのこだわりは、彼の最近の音楽をきちんと聴いていない僕が言うのもおこがましいが、バンド時代以上に大きくなっているように思う。創作ではなく裸の自分を歌いたい、というとよくあるフォークシンガーのようだけれど、そういう方向に向かっているらしい。彼の歌詞はそれでも随分と洗練されている、と思っていたが、どうやら一線を越えてしまったようだ。「天使」という曲の歌詞が載っていたのだが、これが凄い。リアリティーとは何だろう、と考えさせられる。天使はくたびれたおじさんで、それが分かったのは背中から翼がすこし見えたから、という内容の歌詞に対して、うそ臭さや違和感はまるで感じない。ファンタジーでもレトリックでもない、日常に起こった不思議な出来事を真摯に伝えようとしているだけ、という風に感じられるのだ。僕には名曲「ギター」と同様の、もしくはそれ以上のリアリティーをこの曲に感じる。おかしいだろうか。
ところで、曽我部さんが歌詞作りのターニング・ポイントとして挙げたのが『若者たち』収録の「いつもだれかに」。僕はこの曲を何度も何度も試聴して、CDを手にとっては戻して、買わずに帰ってはあくる日また店へ赴きまた聴いて、というのを繰り返して結局購入したのだった。その前に買ったミニ・アルバム『インターステラ・オーバードライブ』を聴いていたから、にわかに信じられなかったのである。でも絶対にいい曲だ、と自分を説得して手に入れたのだった。あれは大学一年生、その後曽我部さんご本人と大学近くでお会いして、サインを頂いた時、「結構ごつい人だなあ」と思ったのを覚えている。
長くなってしまった。今夜は小西さんの章を読みながら寝るとしよう。

若者たち

若者たち